西条市の禎瑞新開と芝桜と石鎚山の景観…2015/4/24
2015年 04月 24日
撮影は4月22日。
禎瑞新田の広大な水田の田植もだいぶ進んでいました。
親戚Tさんとmanryouyの同じ日の時間差で撮影の取材を合わせtた編集になります。
芝桜の接写の側の方がmanryouyです。
本日はどこからも石鎚山の方向を見て、写真に収める。
禎瑞新開とも呼ばれ、中山川の堤防ぞい…西の禎瑞地区です。
まず満開の芝桜をまあ年に いっぺん位は芝桜と石鎚山とのコラボを撮影しときましょわい!
蛭子神社の向こうが芝桜の群生地ですが、その下にも植栽が広がっていました。
午後5時頃撮影
地元の方の手入れが行き届いて、素晴らしい風景に感動します。
夕方ですが、西日に映えていて、芝桜が咲きそろいました。
西条平野の前面の燧灘沿岸には干潟の発達が良好である。
クリムゾンクローバーの花も咲き捲っちょりました!
別名はストロベリー キャンドル、です。
干潟とは三角州前面の浅海底地形で、干潮時に海底の露出する部分をいう。
このような地形は干拓の好適地であり、土木技術の進歩した江戸時代には盛んに干拓工事がなされた。
西条市の干拓地としては、中山川と加茂川の両河川の間の河口近くに造成された禎瑞の干拓地が最も著名である。
禎瑞新田は西条藩祖松平頼純が本家の紀州徳川家から拝受した巨額の御私金をもとに造成した干拓地と言われている。
工事の設計監督は郡奉行竹内立左衛門によってなされ、安永七年(一七七八)に起工、五年の歳月と約二万両の工費、延べ五八万人の役夫を投じて、天明元年(一七八一)に完成した。
樋門
工事は海岸から二・七㎞余の沖合いに、舟で土砂を運んで産山(現灘波の付近)と名付げた小砂堆を築き、そこを根拠に堤防を構築していった。
工事の最難事である潮止め工事は、着工後三年目の安永九年(一七八〇)一二月七日に完成した。
干拓地の排水施設として最も重要なものは、樋門である。
満潮時に遊水池にためている悪水を、干潮時に一気に排水するための樋門の開閉は、干拓地の稲作の死活を制するものであった。
禎瑞の樋門は北西端の灘波にある。干拓地造成時の樋門は当時の最新技術を誇る南蛮樋であり、その責任者は百姓身分ではなく、同心として召し抱えられていた。
その下には数人の樋掛かいて、樋門の開閉に従事した。灘波の地は、干拓地当初は産山といわれていたが、南蛮樋のある重要な地点であり、南蛮樋掛の居住しているところから、南蛮転じて今日の難波の地名になったと伝える。現在の樋門は全自動化されたものが一〇門ある。
西条市禎瑞の龍神社。1799年・西條藩主・松平家によって創建された。
御神徳
海上安全。漁業繁栄。家内安全。
集落立地の特色
禎瑞の集落は八幡・高丸・難波・禎瑞上・禎瑞中・禎瑞下の六集落からなる。
うち前三者は西方の中山川の堤防ぞいに立地し、西禎瑞といわれ、後三者は東方の加茂川の堤防ぞいに立地し、東禎瑞とよばれる。
大葉紅柏が まかか!
赤目がしわの青空に映えて目立ちます。昨年と同じ場所、東禎瑞側です。
集落が堤防ぞいに立地するのは、堤防ぞいが微高地であること、そこが水害に際して最も安全な避難場所であることによる。
海岸線は堤防沿いを車で周回でき、海側と禎瑞の新田側の取材ができました。
17:17分
ぐるっと回ると嘉母神社の上の加茂川土手も通る。